桂家による「月の桂の庭」の説明書

Explanatory leaflet of "Tsuki-no-Katsura Garden" by Katsura family
(by courtesy and permission of the present family head of Katsura family)


(現桂家ご当主の許可を得て掲載しています。)

月の桂の庭

 
慶長旧貫買既更百年之穐
正徳新規猶富千歳之春
 
是はこの庭の作者である四代忠晴が正徳二年に、家屋を新築した際に書きおいた聯板で、裏面に次の記録が記されている。
 
此宅地は元来宍戸氏の家臣梶田文四郎と云ふ人、慶長六年、民屋を買得して修理を加へ居住すと云伝ふ。厥後、寛永二年右田・三丘・御所替・桂運平祖父治左衛門、右の宅地山林ともに拝領して運平代に至るまで、唯雨露を凌ぎて膝を容るばかりなること数十年、漸く、今正徳二年に至り百三年の星霜を経て、財家を解き新居を経営し、之を子孫に伝えんと其旨意を聯後に記置く者也。

作庭者及作庭年代

 
上の記録により、正徳2年(1712)四代桂運平忠晴(1664-1747)が、財家を解き新居を経営したのであるが、この石庭もその時に成立をみたもので、忠晴の作と伝えられている。

系図の記録の内より

 
四代運平忠晴(二代信賢子、三代信次弟)『十一歳ヨリ六郎左エ門就信殿ニ仕へ、十四歳ニテ初メテ江戸二随従ス。青雲公右田家エ御入リノ節勤仕ス、其後、宗室御相続ノ時召連ラルベキ内旨アレドモ右田家ノ厚恩ヲ蒙ルヲ以テ固ク辞ス。筑後広政殿、豊三郎広信殿、内匠広胖殿、三代ノ間、加判家宰ニ勤労シ、録三十石ヲ加増ス、江戸往復十一度。』
 
忠晴は詩歌をよくし、禅を修め、茶道にも一家をなし、数寄屋者風があったという。
この庭は禅の庭であることは、当時右田藩内の事情を知れば了解できると思う。
即ち、右田毛利家の菩提寺、天徳寺は、358年前、山口の妙喜寺より、威雲勇虚大和尚を招待して住職の地位につかしめ、以来歴代住職も各地より名僧高僧を招待して、その地位につかしめ禅を講ぜしめた。と記録されている。
 
この藩主の熱意は家職の者達にも影響しない筈はない。かかる藩内の雰囲気のうちに人となった忠晴もまた例外ではなかった筈である。かくてこの庭が成立したのである。
 
この庭は、石組だけの石庭で、一庭二景の枯山水庭園であって、仏教の、説話的、神秘的な、神仙境の表現をしたものであると考察されている。

庭の寓意

 
福田和彦著「日本の庭」(河出書房新社1962)で次のように解説されている。
以下福田和彦氏の解説。
 
石庭といえば誰れしも京都・竜安寺の石庭を想うが、この石庭もまた、江戸時代における石庭の傑作である。たいていの日本庭園は様式の類型が多く、オリジナリティに乏しいのであるが、この庭はその点、空前絶後の創意を示していて、他に類を見ない。
 
庭の寓意は、桂家の月待ちの行事も、これに関するが、同家の宗旨である曹洞禅宗にちなみ禅籍の碧厳録の九十則「智門般若体(ちもんはんにゃたい)」の偈頌(げじゅ-*1)に求めている。

*1:禅宗で悟りの境地などの宗教的内容を表現する漢詩

 
「如何なるか是れ般若の体」
智門云く、蚌(ぼう-*2)名月(めいげつ)を含むと。漢江に蚌を出す。蚌中(ぼうちゅう)に明珠(めいじゅ)あり、中秋月の出ずるに到って、蚌水面(すいめん)に於て浮んで、口を開いて月光を含む。感じて珠を産す。合浦(かっぱ)の珠是れなり。若し中秋月有るときは即ち珠多く、月なきときは即ち珠少なし。

*2:烏貝(カラスガイ)。中国では烏貝は中秋の名月を浴びると真珠を孕むと信じられた。

 
「如何なるか是般若の用。-*3」
門云く、兎子懐胎(としかいたい)と。此意亦異なること無し、兎とは陰に属す。中秋の月生ずるに、口を開いてその光を呑んで、便乃(すなわち)懐胎す。口中より子を産す。亦是れ月有るときは即ち多く、月無きときは即ち少し。他の古人の答処、許多(そこばく)の事無し。他只其の意を借りて、般若の光に答う。然も恁(いんも)なりと雖も、他の意言句上(いげんくじょう)に在らず。自ら是れ後人(ごうじん)、言句上に去って活計を作す。見ずや盤山(ばんざん)道(いわく)、心月弧円にして、光萬象を呑む。光境(ひかりきょう)を照らすに非ず、境も亦存するに非ず。光境倶(こうきょうとも)に亡す、復是れ何物ぞと。(後略)

*3:般若の知恵の働きを月の光に喩えている。

 
この偈頌は、いわゆる禅門答の形式をとったもので、般若、つまり仏の知恵とはなにか、ということを示している。で、問答に記されているように、真の般若とは無説無聞であり、智門のいう兎子懐胎の深々たる境地がすなわちそれであるという。
 
この石庭は、この般若の体を現したもので、いわば、ひとつの悟り、すなわち禅家でいう円成実相を兎子懐胎の古則を借りて表現したということができる。蚌というの蛤(はまぐり)の一種で、真珠を産する貝のことで、シナでは亀珠(きじゅ)ともいっている。石庭の東庭に見る平たい臥石はこの蚌をかたどったものである。また、L型の二段に積み上げた石は兎子懐胎の象徴と見られる。
かつ、弓型にかたどった形態は心月弧円であり、月の象徴でもある。これはシナでもそうだが、弓型は古代から月の象徴として表現されてきている。
 
月の桂とはこれもまた月にちなんだ伝説、神仙説で、不老不死の寓意がある。桂とは仙人の食物で、月中に桂があるというので、月の桂は不老長寿の象徴であるとされている。(普代虞喜の書「安天論」による)。この弓型石のすぐ右下のカメ型石は、亀珠で、蚌を表現している。南庭は神仙境の石組みで三山十州の様相を象徴させている。三山十州とは、仏教の世界観で、世界の涯に不老不死の仙薬がある神仙境の島々。
 
南庭の右端(西隅)にあるイカダ型の石は舟石で、この庭の場合は般若船(仏がその知恵で人間を助けることをたとえた船)である。
 
以上、要約すると、東庭は兎子懐胎の庭、南庭は神仙境の庭であるという寓意が見られる。この月の桂の庭は不老長寿の信仰の庭であり、無説無聞の般若体を象徴した禅の庭であり、壮大な仏教の世界観を抽象した庭である。
 
石の構造は竜安寺の石庭よりもさらに複雑であるが、東、南庭の配石の構成、石ぶりの選択はじつに卓越した構成力を示す。推敲を重ね、緻密な計画下に成就された庭である。どこの、どの個所の石組みを切断しても一分のすきもなく、ぎっしりと構成され、破綻がない。この造型感覚には、なにひとつ未完成なものはないのである。
 
立石と臥石の調和、位置の平均率、寓意を象徴した石の抽象性など、専門の造園家の才をしのぐ。この造型力は天稟の才さえ感じさせる。庭の寓意を知れば知るほど、この庭のもつ美しさは、よりいっそう神秘性を増す。石のもつ呪術の権化であり、永劫回帰思想の具現である。
 
庭は、もはや庭園という概念を突放す。ひとつの宗教美術である。ヴォリンゲル(-*4)のいう、抽象の感情移入の美学そのものである。その抽象美は現代の美術の中にあっても、古典の高みとして、つねに新たな光芒を放つ。

*4:ウィルヘルム・ヴォリンガー(wilhelm Worringer) 1881-1965 ドイツの美術史家

 
無説無聞という、無の象徴としての兎子懐胎の庭からは、尽きるを知らぬ神秘性が湧き出ている。
以上「日本庭」(河出書房新社1962)より。

石の産地

 
般若の舟の石組の中央(白筋入)の石は美祢の石、手水鉢(青石に白筋入)は四国大歩危、小歩危のもの、その下の小石は桂浜のものである。その他の石は右田産である。

月待行事(非公開)

 
この石庭に関連するものに月待行事がある。行事の起こりは、築庭者である忠晴が佐波川尻佐野に開作を経営した際、その事業の完成を兎肉を断って、月に願をかけたことに始まる。
 
旧暦十一月二十三日の夜、月が兎石の上にかかるのを待って開作の完成を祈願したのである。この事実により、この庭は禅思想の象徴したものでありまた同時に信仰の庭でもあったのである。
 
祭壇には三宝に太陽をかたどった一重ねのだんごを中心としてその周囲には月をかたどった十二個の重ねだんごをならべたものを供え、また別に、小豆粥、煮〆を供える。これは行事後の夜食に供す。
 
代々いいづたえにより現在も右のような簡素な、しかし厳粛な行事を行う。月が兎石の真上にかかるのを待って、(2時ごろ)燈火を点じ、心静かに先祖のこの悲願を偲びつつ吾々の過去一ヶ年間を反省し将来に備えることを誓うのである。

南庭(South Garden) 神仙境の象徴の庭

 

南庭神仙境の象徴の庭のイラスト
立石は三山 臥石は十州
左 須弥山の石組
右 般若の舟象徴の石組

東庭(East Garden) 智門般若体を象徴した庭

 

東庭智門般若体を象徴した庭のイラスト
左 二個の石組は陰陽石
中央二段組の石兎石懐胎の象徴毎年旧暦十一月二十三日の夜この兎石の上に月のかかるのを待って月待行事を行う
右 臥石は蚌を象徴